大事な人に

昔、友達と参加していた自転車レースの参加費は、一人あたり一万円弱だった。

その金額で、丸一日楽しんだ。


2014年の春のことだ。

50名の作家によるポストカード展示会に参加した。

記憶が正しければ、出展料は4,000円だったと思う。

特に選考基準もなく、先着順で参加できる。

加えて、そこで物販を行うルールがある。

へぇ、そんな世界があるのかと、私は喜んで参加した。


その時の気持ちを素直に表せば、以下のようになる。

「自転車イベントの半額以下で、1日で終わらない面白そうなイベントに参加できる」


ポストカードを作成し、ギャラリーに展示してもらい、これまで縁の無かった「作家」という人々と知り合い、色々な刺激を受け、それは楽しい何日かを過ごさせていただいた。

期間中、私の作品はほとんど売れなかった。

だが、私自身は非常に楽しんだので、出展料のモトは取ったと考えていた。

実際にそう言って笑っていた。


展示期間が終わった後、何か学べることがあるだろうと、出展者の中で群を抜いて売れていた5名(全員存じ上げぬ方々だった)のブログをチェックしていたら、ある若い女性の書いた以下の旨の日記を見つけた。


曰く、値札を付けることが前提で、この店でやることが前提の展示会に出展し、それが売れないまま、趣味だからとほざいて笑って何もしないヤツは何を考えているのかと。

誰にも欲しがられないモノはゴミと同義であると。

ゴミを量産したいわけではないだろうと。

何故、大事な人に贈るモノを作るような気持ちで作れないのかと。


これを読んだ私は、実に48時間怒り狂った。

これは私のことだ。

全くもって私のことだ。

実際には、これを書いた彼女は、恐らく私の存在自体を知らない。

多くの者を十把一絡にしての説教だ。

だが、もちろん、私は、十把一絡の内の1人だ。

いい歳をして若い娘に、こんな当たり前のことを指摘された恥ずかしさに、私は怒り狂った。

そして、48時間後、私は彼女の言い分が、どの角度から見ても全面的に正しいと認めざるを得ず、大いに落ち込んだ。


そうだ。

このブログの書き手は正しい。

全く正しい。


私は、私の作ったものをお金と引き換えてくれるかもしれない個々人の存在を見ていなかった。

値札が意味するメッセージ

「どうかあなたが頑張って稼いだお金とこれを取り替えてください」

を晒したまま、趣味だからと笑っていた。

そうして作ったモノが売れないのは全く当然だ。

そうして作ったモノが自分でも商品に見えないのは全く当然だ。

自分で値札をつけて、あそこに飾ったのだから、売れていないモノはゴミと同義だ。

値札をつけるのであれば、大事な人に贈るモノを作るような気持ちで作るべきなのだ。



人は「こんなもので?」と思うかもしれない。

それでも、あれから私は、値札を付けるものは、例えば、娘の余命が数時間であると判明したとして、その娘に「じゃじゃーん」と言って差し出すことを前提に作っている。

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